山陽道
下関市長府-下関市赤間関
約8.6Km
野久留米街道-前田地区
功山寺をすぎると、旧街道はにわかに静けさを取り戻し緩い上り坂になります。この長府から野久留米町を通り前田に出る旧山陽道は、野久留米街道と呼ばれ、長府城下町と赤間関の港をつなぐ長府藩の動脈でした。幕末の頃には、維新の志士たちや奇兵隊をはじめとする諸隊が、外国艦隊や幕府軍を迎え撃つために慌ただしく行き交ったであろうこの道も、今では静かな田舎道となっています。
人家も途絶えがちな山道を上り辻堂峠を越えると、今度は田畑が広がるのどかな田舎道を快調に下ってゆきます。茶臼山の北側の山すそをまわり込むように下り、前田の集落に入る手前の前田簡易郵便局が建っている追分で旧街道は県道246号と分かれ右側の道を行きます。
ここで少し旧街道から離れてそのまま県道246号を進み、前田の砲台跡を目指します。前田の砲台は、長府から下ってきた県道246号と国道9号が合流する交差点から少し東に走った所にあり、ここは元は長府藩主の別荘(御茶屋)でした。
幕末、外国からの脅威に備える為に長州藩は下関海岸一帯に砲台を築きましたが、主力が前田の砲台でした。ここは総監をつとめる赤根武人ひきいる奇兵隊が守っており、青銅砲が20門配備されていました。しかし、すべて旧式のカノン砲で、外国艦隊が装備する最新式の鋼鉄製のアームストロング砲には飛距離も命中精度でも大きく劣り、まったく歯が立ちませんでした。
そして前田の地は二度に渡り焼き払われ、日本史上初めて外国軍により武力で占領されるという経験をすることになりました。今でも前田で工事をすると、攘夷戦争の時の不発弾が発掘されるそうです。
前田の御茶屋・台場跡付近には古代の臨門駅があったと推察されています。臨門駅とは古代の山陽道の終着駅で、海外からの賓客の歓迎施設の役割も兼ねていました。今下ってきた県道246号は古代の山陽道だったのかもしれません。
県道246号を上り返し、再び旧山陽道までもどります。県道246号から分かれた旧街道は山すその斜面に広がる前田の集落に入って行きます。過去の悲惨な戦渦が嘘のような静かな集落を進みますが、旧街道は途中で途切れて分からなくなっていて、ここで自転車を担いで階段や狭い路地を上ったり降りたりして、かなりの時間と体力をロスしてしましました。
新しく出来た道をたどってなんとか旧街道にもどり、壇ノ浦を目指します。
野久留米街道を上ります
のどかな田舎の風景が広がります
前田簡易郵便局の三叉路を右に入ります
前田砲台跡
静かな前田集落
この先で行き止まり
火の山-壇ノ浦
前田から壇ノ浦への旧街道は、海岸沿いを走る国道9号より少し高い所を通っています。前田を出てから火の山公園にさしかかるまでは、古い道標らしき石柱が立っていたりして旧街道の道筋をたどる事ができますが、火の山公園内にある国民宿舎やユースホステルにさしかかる辺りからは、旧街道は分からなくなっています。
ユースホステルから坂道を下って海に出た所に壇ノ浦砲台跡の碑が建っています。ここ壇ノ浦砲台は、軍監をつとめていた山県有朋率いる奇兵隊が守備に付いていました。奇兵隊は外国艦隊との戦いが実質的な初陣で、戦闘意欲は非常に高く目覚ましい活躍をしたものの、近代兵器を装備した外国軍との戦力差はいかんともしがたく惨敗を喫してしまいました。しかし、この敗戦をきっかけに長州はイギリスに急接近し、軍備を急速に近代化させてゆきます。
砲台跡碑から西側にはみもすそ川公園が整備されていて、そこには長州が使用したカノン砲のレプリカが置かれています。そこから関門海峡を望むと、対岸の門司岬まで数百メートルしか離れておらず、双方至近距離で撃ち合った事がわかります。外国軍がこの戦いで発射した砲弾はのべ2500発にもおよびました。
幕末の外国艦隊との攘夷戦争の記憶が比較的新しい壇ノ浦ですが、全国的には源平合戦の古戦場がある事で有名です。みもすそ川公園を西に進むと、川も流れていないのに真新しい赤い欄干の橋があります。これがみもすそ川橋で、ここの国道の下を流れているみもすそ川河口の沖合で二位の尼が安徳天皇を抱いて入水したと伝えられています。
その他みもすそ川公園には壇ノ浦古戦場跡碑や源義経像などが設置されています。武家社会の始まりと終わり双方の重要な舞台になったこの地で、歴史の彼方に思いを馳せながらしばし足を休めるのもよいでしょう。
みもすそ川公園から旧街道はしばらく味気ない国道9号に沿って進み、いよいよ終点に向かって下関の町中に入って行きます。
火の山沿いの旧街道
道標らしい石柱
壇ノ浦砲台跡
長州砲のレプリカ
みもすそ川橋
国道9号を走り関門橋をくぐります
赤間関(下関市街)
関門橋の下をくぐって少し走った所の山側に立石稲荷神社の真っ赤な鳥居が見え、反対側の海の中にはしめ縄が掛けられた烏帽子岩があり、この辺りから赤間関(下関中心部)に入ります。
最初に出てくる壇ノ浦町は、幕末の壇ノ浦砲台の築造に伴い、みもすそ川の地から移設された比較的新しい町です。壇ノ浦町を過ぎると阿弥陀寺町に入りますが、下関市街地の旧街道は戦災により跡形も無くなってしまっています。
阿弥陀寺町に入るとひと際目立つ赤い社殿が現れますが、これが赤間神宮で、境内の横には壇ノ浦で海に没した安徳天皇をまつった安徳天皇陵もあります。赤間神宮は江戸時代までは阿弥陀寺と称していて、ここの地名の由来になっています。高杉晋作により奇兵隊が結成された時には阿弥陀寺に本営がおかれました。
赤間神宮の横の少し高くなった所に日清講和記念館と春帆楼があります。ここは日清戦争の講和会議が開かれた所で、日清講和記念館は近代化遺産にも指定されています。この建物の横に、「右上方道、左すみよし道」と刻まれた道標が横たわっていました。これは資料によると阿弥陀寺町にあった菊泉印刷前に立っていた道標で、上方道とは山陽道の事です。今後この道標がどう扱われるのかが気がかりです。
春帆楼から国道に下った所に本陣伊藤家跡の碑が建っていました。ここには参勤交代の大名や、朝鮮通信使、江戸に上るオランダ商館長(カピタン)の一行のほかに、シーボルトや、坂本龍馬夫妻も訪れましたが、建物は残念ながら太平洋戦争の時の消失してしまいました。
阿弥陀寺町から国道9号を西進し、中之町に入ると道沿いに亀山八幡宮の鳥居が立っています。往時はこの辺りは海に突き出た形になっていましたが、今では周囲は埋め立てられ海岸線は遠のいています。明治初期の亀山八幡宮の写真をみると、海に面した鳥居の近くに船番所が見えています。幕末には亀山八幡宮にも砲台が築かれ、外国艦隊との攘夷戦争の第一弾はここから発射されました。
亀山八幡宮の鳥居の横に「山陽道」と刻まれた石碑が建っていて、ここが山陽道の起点であると記されています。しかし、この石碑が建てられたのは、明治11年(1878)にこの地に渡船場が新たに設置された時で、それ以前はもうすこしJR下関駅方面に走った所に山陽道の起点の一里塚がありました。この亀山八幡宮周辺(唐戸地区)は、埋め立て地側に唐戸海峡市場やカモンワーフ、海峡館などが立ち並び、人気の観光スポットになっています。
この辺りから南部町までの旧街道は、戦後の区画整理などで往時の道筋は消滅してしまっています。取りあえず東側の交差点まで戻り、下関市役所前を通る旧街道に合流するまでそれに近い道を適当に走ります。県道57号の田中町交差点から再び旧街道の道筋をたどる事ができます。国道9号の一本北側の下関市役所前を通る往時の面影をまったく残していない道をゴールを目指して淡々と走ります。
旧街道と国道9号が接近した所に永福寺の参道があります。明治初期まではここに山陽道の起点の一里塚がありました。亀山八幡宮前の山陽道碑のような山陽道関係の史跡はなにも残されておらず、思いのほか地味なゴールになりました。
小月から赤間関までの旧街道は、厚狭から小月までの峠越えを伴うハードな道筋と違って、野久留米街道を除きほとんど静かな裏通りと行った趣の道でした。
立石稲荷神社の烏帽子岩
阿弥陀寺町の旧街道
赤間神宮
日清講和記念館
撤去された道標
本陣伊藤邸跡
亀山八幡宮前山陽道碑
南部町の旧街道
永福寺前